ふつうをめざして生きていく

適応障害の専業主婦日記

専業主婦のジレンマ (番外編)

「ふつう」とは違う私は、結局外では仕事ができないし、専業主婦としてご近所や親戚とうまく関係を築くこともできない、という話。

 

たいした職歴もないまま専業主婦であることにコンプレクスを持っていた私

十数年間専業主婦をした後、一大決心をして働きに出てみたものの、適応障害になるほどに向いていないことが分かった。

 

私は、ふつうの人のふつうな考え方や行動がわからないので、

ふつうの人と連携をとることができないのだ。

 

自分なりに真面目に一生懸命考えて出した結論のもとに行動すると、

他の人とずれてしまっている。

 

だから他者と連携できない。

 

家事の分担を家族に頼むという、多分ふつうの人には難しくないことを、

私がおかしな頼み方をするので拒否されたり、

家族が私とは違うやり方をされるため、うまくいかない。

 

仕事もそう。

「状況を見て」というのが苦手。

 

状況はちゃんと見ている。しっかり見ている。

だけどその状況を見た上での判断が、

誤りといかないまでも、私は独特すぎるようなのだ。

 

適応障害になったのは、「ふつう」に適応できなかったからなのだと、今では思う。

 

兼業主婦に向かないことがわかったが、

専業主婦に向いているかといえば、それも自信がない。

 

だって人間関係が苦手だから。

親戚付き合い、近所付き合い、友達付き合いが苦手で、

失敗ばかりする。

 

人との関係をたくさん壊してきてしまった。

 

もう私は世の中に対して適応障害なのだと思う。

専業主婦が資格を取得して働く現実

アラフィフ専業主婦、資格を取得して働くも、直面した現実は過酷だった話。

 

資格を取得することが、社会経験の少ない専業主婦が職を得る可能性をもたらしてくれると思っていたし、

多くの人がふつうに働いているのだから、自分にできないとは思っていなかった。

 

 

現実はどうだったかというと…

①私が長年専業主婦として家事全般担ってきたために、私以外の家族が家事分担に快く応じてくれなかった。

 

私が家事のやり方、段取りを教えるも、

夫も子どもも本来私がやるべき役割を回された、と感じるようで、快くやってくれない。

なので、私は家のことを全て1人でやった上で仕事に出ることになった。

 

 

②熟年で再就職した人の苦悩が少しわかった。

 

自分の子と同じ世代の人たちと一緒に新人として入社するので、

同期といえども一緒にいて居心地が悪いというか、アウェーな感じで馴染めない。

また会社からは将来を期待されていないことが、業務の割り振られかたなどから感じられる。

さらに年下の上司に指導されたり叱責されたりすることは、想像以上に精神的苦痛を伴った。

 

 

仕事にはやりがいを感じていたのでこのまま頑張って定年まで働くつもりで頑張ったが、

いろいろなことが重なり身体がいうことを聞かなくなり心もついていけなくなった。

 

家事は当然今までと同じレベルではできない。

食事は作り置きなどして努力したが、おかずを温める余力がないので冷たいまま出したら、

夫が怒って床に全てぶちまけた。

掃除ははじめは週末にしていたが、

疲労が溜まってきて、だんだんそれすらできなくなり、月に1回になり、

やがてGWや年末年始くらいしかできなくなった。

衣替えもできず、洗濯物も乾いたら山積みにしておいた。

もう、人間の住むところじゃなくなっていった。

 

同期たちが仕事帰りに飲みに行くことがたまにあった。

私は誘われず、私自身も行きたいわけではないのだが、

私がいるときには飲み会のことを合図で示しあったりしているのを見ると、寂しい気持ちになった。

 

家にも、職場にも居場所がなくなっていくようだった。

 

もともと人との連携が苦手だし、疲労が回復することもないし、

毎日心身ともにすり減って、酒を飲むことだけが楽しみになってしまった。

 

あれほど兼業主婦が羨ましかったのに、

夫から自立して稼ぎを得たかったのに、

毎日自分がなんのために働いているのか、生きているのかわからなくなっていった。

 

それでもやっと手にした仕事を手放したくなくて、私にしては頑張った。

家でも職場でもダメ出しばかりされているように感じて、

それが毎日だと誰でも本当に精神的に追い込まれるのだと、身をもって分かった。

私に友達が少ない理由

私に友達が少ないのは、「賢者は友達を選ぶから」だと思った話。

 

私は友達が常に少ない。

その理由に最近気がついた。

私が友達になりたいと思う人たちは私にそれほど関心がなかったり、

「君子危うきに近づかず」という諺があるように、

私のように「深入りしたらヤバい」人とは距離をとっていくからなのだと。

 

不安なことがあると相談を持ちかけ、

問題が解決するか、問題が起きたことを納得し受け入れることができるまで、

延々と解放せず話を聞かせられたら、

ふつうは引くだろう。

 

また、過去の不快だったり辛い体験を消化できずに、

似たようなことが起きたときに昔の恨みつらみを織り交ぜて話して聞かせるのも、

かなりしんどいことだと思う。

 

一緒にいて楽しい、ほっとする、そんな人とは対局にいる私。

 

私が友達になりたいと思った人たちは、

決して私に背を向けたり気分を害することを言ったりせずに、

少しずつ少しずつ後退りつるように距離を離していった。

 

とはいえ、全く友達がいないということもなかった。

ただ、悪い人たちではないのだろうが、

私から離れていかない人たちは、だんだん私への態度が雑になってきたりした。

 

みんなで行きたい映画の話をしていたのに、

数日後、メンバーの1人から映画観に行って楽しかった話をされる。

聞けば、私以外の他の人たちみんなで行ってきたのだとか。

私だけ誘われないことは寂しいが、

平気でそのことを言ってくる神経にも腹が立った。

 

あるいは、子どものことで私が心配していることを相談したその直後に合流した人に、

「うちは先生から嫌われないでよかった」

と、私が心配している内容について自分とこはそうではなくてよかったと言ってしまう無神経さ。

 

その他色々マウントとってきて相対的に優越感を得たいがために私と会いたがる人など、

私の心の安定を奪ってゆく人たち。

 

みんながみんな、誰にでもそうというわけではなく、

よく観察していると、私に対してはそういう態度にだんだんなっていく。

 

そういうことに疲れてしまい、

連絡がきてもはぐらかし続け、

こちらからは連絡を断ち、

働きに出て忙しくしているうちに、

本当に友達が少なくなってしまった。

 

現在は適応障害の療養中で人と会うエネルギーがないので、

友達がいなくて寂しいことはないが、

ふと、自分に友達が少ない理由に気がついて暗い気持ちになった。

 

原因が分かったのなら、努力して悪いところを直せばいいのだろうが、

性格そのものというよりは心の病んでいる部分が悪さをしているので、

心が治らない限りは良くなりようもないと思う。

 

「ふつう」の人は、人から粗末な扱われ方もしないのだろうなと思う。

心の病みに年季が入っているので、治療してもなかなか根治に辿り着かず、

アラフィフになってもまだ治らない。

 

こんな自分で自己肯定感を持つのはとても難易度が高いことだ。

専業主婦のジレンマ (後編 ②夫との関係と自立への道)

移住したい夫について行きたくないので働こうと決意した話。

 

私たち夫婦が40代になったある日、夫が「今後の計画」を私に話してきた。

早期退職をして、退職金を使って南の島か山奥に移住するというのだ。

私は絶対イヤだ。

私は環境の変化が大嫌いだし、劇場や美術館に簡単に行けないところに住むなんて絶対イヤだ。

 

夫は具体的な話をしてきた。

「今、農業を継ぐ人が減ってきていて人手不足だから、

自分たちが農業を始めれば大歓迎されると思う」

と言う。

住む場所は、星降る夜空を眺められるよう、街の灯りから遠く離れた山の中腹か、

家を出てすぐに釣りができる岩場があるようなところがいいのだとか。

 

冗談じゃない。

これから年取ってゆくのに、そんな辺鄙な場所でやっていけるのか。

農業だって、歓迎されるのは若者だろうに。

 

大した職歴もない専業主婦の私は、ただ黙って夫についていくしかないのか。

それは絶対にイヤだ。

 

それで一大決心をして、就職をしようと強く思った。

 

ただ、私にはろくな職歴がない。ほとんどアルバイトを渡り歩いてきただけ。

子どもが生まれてからはずっと専業主婦。

 

だがしかし!専業主婦時代、何もしていなかったわけじゃない。

決して空白の年月ではない。

そう考えて、ある福祉系の資格を取得して就職活動をすることにした。

2年ほど勉強して、国家資格をとった。

 

福祉系の仕事は引く手あまたで、就活を始めたらすぐに決まった。

専業主婦の年月が長かったことは、マイナスにはならなかった。

 

夫について移住したくないことが原動力になった就職活動だが、

仕事を持たないまま死んでゆくつもりはなかった。

いつかは働きに出たかった。

 

自分は働かないで、

夫にだけ「働いて、ずっと私を食わせろ」なんて言うのはおかしいし、

老後の蓄えだってしておきたい。

自分で働いて得たお金を、自由に使ってみたい。

 

こうして、私の第一次専業主婦時代は終わりを告げた。

専業主婦のジレンマ (後編 ①子どもの激しい反抗期)

子育ての黄金期が終わり、子どもの反抗期を通じて自分の子供時代の闇が見えてきた、と言う話。

 

 

子どもが成長していく過程ごとに親としては関わり方を換えてゆかなければならないが、

私はそうした変化も苦手なのだった。

 

公園で他の子たちと遊ぶ姿を見守りながら寛いだり、

いろんなところに家族で出かけ、子どもが喜ぶ姿を見れば嬉しかったし、

習い事などで様々な体験をさせることは、親としても楽しみだった。

 

毎日ひなたぼっこをしているような、満ち足りた気持ちで過ごしていた。

子供の頃から病んでいた私が、

生まれて初めて「誰のことも羨ましいと思わない時間」が、そこにはあった。

だから子どもが思春期を迎える頃になって、

子どもの方は、私とは異なる感じ方をしていることに、気づかなかった。

 

私の子の反抗期は早かった。

小学校高学年になると、

私にトゲトゲした態度をとるようになったし、

ことある毎に、私の気に入らない選択をわざとするようになった。

 

何度もバトルを繰り返し、ある時こう言われた。

「もう早く人生終わりたい。自分の人生生きている気がしない」

と。

 

そして、私が幸せだと思っていた家族旅行や、外食など、家族で何かやるのはもうイヤだと。

 

その時の打ちのめされた気分といったらなかった。

すぐには子どもの言葉を受け入れられなくて、また大闇期に突入した。

当時の病み方は相当酷くて、

病院にもカウンセリングにも通ったけど、

私の受け入れられない気持ちが頑固すぎて、まるで改善しなかった。

電話相談ジプシーもひと月ほどしたし、目の前が真っ暗でどん底に落ちた。

 

しかし苦しみ抜いて時間が経ってみると、

自分自身が子どもの頃に病んでいた理由がわかった気がした。

 

私は母のようにはしないと思いながら子育てしていたが、

子どもを

「自分が思い描いた姿」に矯正し、

「自分が正解だと信じていた道」歩かせようとしていたところは、

無意識に母と同じことをしていたのだ。

 

自分で考える前に、先回りして道を示してしまう。答えを言ってしまう。

自分の考えが親の価値観と異なる時、親の考えで上塗りされてしまう。

好きなものも嫌いなものも自分と親とは別なのに、同じだと決めつけられて与えられる。

そうしたことに、私は子どもの頃どれだけ絶望していたか。

 

子どもの言葉は、昔の私自身の心の叫びと同じだった。

 

このことがわかってから、ようやく私は子離れしなくてはいけないと、

本当の意味でわかった気がする。

 

私がこのことに気づいて、関わり方を大きく変えたからといって、

子どもの反抗期は収まらなかった。

でも、それは自分の力で試行錯誤して、もがいているのだから見守ることにした。

 

それまでの私は、子どもが自力でもがくことさえも抱きしめて縛り付けていたのだから。

 

子どもは習い事を全て辞め、

ネットの世界に没した。

中学生の時も高校生の時も、午前中は学校に行かないで、昼過ぎにようやく登校したり、

定期テストの前でも遊び歩いたり、

受験期なのに映画観に行ったりコンサートに行ったりしていた。

 

苦手を克服するとか、得意を伸ばすとかの努力もしない。

宿題はやらず、

ミニテストや追試も受けず、

補修にも出ず、

先生からの放送での呼び出しにも応じなかった。

 

体育祭の朝練午後練には不参加を決め込んだ。

 

学校の子どもへの評価は最低だった。進学の推薦など、絶対どこにもしてもらえるはずもなかった。

 

そんな子どもだったが、仲の良い友達はいて、

学校の友達ともネットで知り合った友達とも仲良く遊んでいた。

夜遅くまで遊び回ったりもしていた。

友達の中には私の知らない人もいたけれど、

友達と楽しく過ごしている話を私によくしていたから、

大丈夫なのだろうと思った。

 

子どもの私への反抗は、「自分自身を一番に守るため」だと思うから、

そこを信頼する根拠にした。

 

子どもが楽しい話をしているときは、悪い状態じゃない。

悪いことをしていたり、

苦しんでいたり、

困っていたりしたら、

楽しい話を親になんか絶対できない。

 

子どもは自分で友達を選び、学び、人生を切り拓いている。

もう「早く自分の人生終わりたい」などと言わなくなった。

毎日、やりたいことがありすぎて時間が足りない。

こんなに生きるエネルギーに溢れていることはないと思う。

 

私がもし、兼業主婦だったら子どもと向き合う時間は限られていたので、

子どもが苦しくなるほど距離が近くはなかっただろう。

しかし、無意識に母が私にしていたことはやはりしてしまっていたと思う。

 

そのことで子どもが苦しんでいたとしても、

私が仕事を持っていたら子どもの苦しみを見ないようにしてしまったのではないだろうか。

 

人生でかなり苦しんだ時期だったけれど、意味のある時間だったと思う。

専業主婦のジレンマ (中編②ボランティアという名のタダ働き要員ー地域)

このままでは町内会を存続させることは無理だろう、という話。

 

うちの町内会の役員メンバー高齢化してきた。

私も町内会役員の1人だが、かなり若手ということになる。

 

町内の大人たちは共働きの子育て世代か、定年退職し悠々自適に暮らしている人、

それ以外は町内会に入らない単身世帯。

 

どの人も町内会役員は引き受けたがらない。

役員ではない一般住民でも当番で班長ゴミ掃除当番が回ってくる。

子ども会もある。

幼稚園、保育園、学校の役員をやらなくてはならない。

これ以上は無理。

現役を退いた世代も、やりたがる人は滅多にいない。

 

実は町内には他にも住民の誰かが引き受けなくてはならない役回りがいくつかある。

民生委員消防団食生活改善推進員など。地域によっては他にもある。

どれもボランティア。雀の涙ほどの通信費や交通費が出るものもあるが、基本無報酬

これらの人選も、町内会がやる。

 

町内会は定例会、地域の祭り、福祉バザー、美化運動、消防訓練、避難訓練など、

それはそれはたくさんの仕事があって、

今の現役世代に役員やって、なんて、私には言えない。

現役引退した方達はようやく好きなことができる時間ができたと思っているだろうし、

体力的にも相当厳しいと、実感している。

 

私のように紙一重で病気になってしまうくらい過酷な毎日を送っている人たちに、

休みの日に町内のために出てきて仕事してだなんて。

 

専業主婦に頼むのもやめてほしい。

働いていてもいなくても、時間の価値は同じ。

働いている人たちが財を築いている時間に、タダ働きさせられるなんて冗談じゃない。

 

私は町内会の存在意義を感じていたから役員になった。

日中の時間帯、ひっそり静まりかえった町内は、犯罪の格好の餌食になりやすい。

地域の関わり合いが活発で、協力的な近所関係であったなら、

それが何よりの防犯になると思う。

また町内の行事を通じて隣近所と仲良くなれば、災害時に助け合える関係になれるから。

 

そう思って活動に参加してきたが、

仕事の内容が多くて結構責任もあるのに、

時には自分の都合を曲げて引き受けなければならない業務がたくさんあることに納得がいかないと思うようになった。

 

町民全て、働いていてもいなくても、どんな立場でも、それぞれの都合と言うものがある。

行きたいコンサートもあるだろう。遠くに住む親兄弟の世話もあるかもしれない。

 

それでも町内会の行事を優先しなくてはならない空気感なのだ。

そうでないと、とても回らないくらいの仕事量なのだ。

 

町内会は、一体何に縛られているのか。

できる範囲のことを、無理なくこなす以上のことを求められている。

 

町内会は、実は下部組織だ。

実権は社会福祉協議会が握っているようなもの。

社会福祉協議会は、地域のボランティア活動を推進する団体。

町内会の仕事を増やしているのも社協

民生委員の候補が出せないと、町内会にやいやい言ってくるのも社協

従来行ってきた行事が既にあるのに、

イベントを勝手に作って増やしていくのも社協

社協は町内会にやらせるだけ。

やるのは町内会。タダ働き(会長はちょっとの報酬もらっているらしいが)で。

 

社協の人たちは、ちゃんと給料をもらって仕事をしている。

こういう構図が心底イヤになる。

 

このままだと、町内会の負担が重すぎてなり手がなくなる。

 

社協にお願いしたい。

町内会の仕事を、町内会に断りなく増やさないでほしい。

実際に動いている町内会役員が、

自分たちにとって無理のない範囲でできることを厳選して仕事をする。

誰でも手伝える程度に規模を縮小する。

 

「自分たちはやらないけど」という立場の人が仕事を作ると本当にろくなことがない。

 

このまま町内会が完全になくなって、本当にいいのか。

今のままの負担だと、徴用でもしない限り人を確保できなくなるだろう。

 

専業主婦のジレンマ (中編①ボランティアという名のタダ働き要員ー幼稚園・学校)

幼稚園、学校で役員をしていたときのいろんな話。

 

子どもがお世話になっている幼稚園や学校への感謝の気持ちから、

また自己を肯定するため(?)引き受けた役員時代のあんなことやこんなこと、言いたいこと

 

 

<目次>

 

幼稚園時代のクラス役員

当時、子どもの幼稚園は1クラスにつき6人の親が役員として選出された。

いつかはやるべきものだと思っていたから、私は自ら立候補した。

他のメンバーも立候補して割とすぐに決まった。

 

幼稚園の行事を手伝うことは楽しかったし、

子どもの様子を近くで見ることができるのは嬉しかった。

子どもも私が行くと喜んでくれた。

子どもの幼稚園時代の思い出を、私にとっても素晴らしいものにしてくれた。

 

だがしかし、6人もいると楽しいばかりというわけにもいかない。

役員の仕事に対する温度差が結構あって、

仕事をどんどん膨らませてしまう人と、それに耐えられない人が仲違いしたことがある。

たまたま同じクラスの役員というだけで、子ども同士が仲いいとも限らない。

 

幼稚園の先生が母親たちの仲を取り持ってくれるはずもなく、

板挟みにもなり苦労した。

 

また、役員から外れた一般ママたちが行事の準備を何もしなくてよかった一方で、

私たち役員が行事のたびに、長時間、準備と当日と後片付けとに駆り出されるのは、

なかなか重労働でもあった。

 

 

中学校のクラス役員と執行部役員

子どもが中学生になったとき、またクラス役員になった。

立候補でもいいのだが、なかなかなり手もなくなんと「推薦」で選出された。

私は働いていなかったから断る理由がないし、やってもいいと思っていたので引き受けた。

クラス役員は4人いて、年間行事に沿って仕事が割り振られており、

4人で話し合って出られるものに出ればよかった。

やや大変だったのはバザーくらいで、あとはゆるく楽しく活動できた。

 

問題は執行部役員のとき。

執行部役員は年度の終わりに、現執行部役員が1人ずつその年のクラス役員全員に電話をしてお願いするシステム。

執行部役員になりたい人など誰もいなかったので、毎年難航した。

 

私のところにももれなく電話があり、

やはり働いていないことで断りきれずに引き受けた。

任期は2年。

 

大変だと聞いていたけれど、想像を絶する大変さだった。

週に2日か3日、朝9時集合、一応5時には終わる予定だったが行事の時にはもっと遅くなることもあった。

昼休みはお弁当を食べている時間だけ。食べたらすぐ仕事。

それほど仕事が盛り沢山。

バザーや学校清掃、ベルマーク、学校だより、母親向けのレクリエーションの企画など。

印刷物を印刷し、クラス毎に枚数を数えて届ける。

クラス役員のお母さんたちに仕事を振るための準備。

 

子どもが中学生の頃は働いていないお母さんが少なくなっていたため、

普段は働いていて、役員の日は有給とって活動している人もいた。

 

はたから見ていても大変さが伝わってくるので、誰もがやりたがらない学校役員執行部。

しかも2年間もだなんて。

 

一番大変な仕事は、次期執行部役員を選出するために電話をかけること。

通信費は自腹。

 

働いている人はそれを理由に断ってきたけれど、

働いていない人もなんだかんだで断る人ばかり。

 

私は働いている人もそうでない人も、

時間はみんな同じでどちらの時間の方が価値があるなんてのはないと思っている。

 

幼稚園も学校も、役員は楽なものではない。

奉仕の気持ちがないとできないものだが、タダだからってとことん使われてる気持ちになったことも事実。

 

ボランティアでも、少しくらい報酬を出したら不公平感もないのにと思う。