毒親の話題は相手を選ばないといけない。私は誰彼構わず話した結果、傷を深くした経験を増やしていった。
私は毒親育ちだ。
毒のある親と長年過ごしてきた人は、人格形成への悪影響は免れないし、普通に生きていくことも難しくなる。
毒親育ちは心の深いところを病んでしまい、毎日が不安と悲しみでいっぱいの中、希望を持てずに生きている。
真っ暗闇の中、どこから何が出てくるかもわからない中を、1人で彷徨い歩いているような状態。立ち止まれば上から天井が天井が落ちてきたり、突然底無し沼に嵌まることもある。
毒親に育てられた人の人生は、過酷なのだ。
生きていれば誰でも壁にぶち当たるし、試練も訪れる。
毒親育ちの多くの人は、それを超えていく気力がわかない。
それでもどうにか生きていこうとして、誰かに頼ることもある。
自分で自分の感情を支えきれずに、優しい人を見つけて縋り付いてしまう。
けれども「普通の」「まともな」優しい人は、これを受け入れられない。
毒親育ちの人が苦しい心を理解して欲しくて意を決して打ち明けても、最後まで聞かずシャッターを下ろしてしまう。
心療内科の先生や、カウンセラーでも、そういう人は多い。性格的にバランスのとれた人ほど、その傾向にあると感じている。
その理由として私の憶測だが、
毒親育ちの病んだ人は、浮かびあがろうとするよりも、優しい人を道連れに泥沼の底まで沈み込んでしまうから。
浮かび上がると、自分を引き上げてくれた優しい人が、もう大丈夫と去ってしまうような気がするから。
「正常な感覚の」優しい人は、他にも大切にしたい人がたくさんいるし、自分を大切にしているから、1人の人と一緒に沈み込んでしまうわけにはいかないのだ。
自分を生み育ててくれた親をいつまでも執念深く恨み続けることも理解できないだろう。
自分の子どもを愛さない親などいない、過去の過ちを決して許さないという仕打ちをするなんて、ひどいと思うようだ。
なので、毒親の話は、相手を選ばないとできない。
中にはとても理解を示してくれる人もいる。
自身が毒親育ちで苦しんで、毒親について学び、自分の心を自分で救い、他の毒親育ちを救おうとしている人たちだ。
私は一時、そういう理解のある医者やカウンセラーの話を聞いたり、著作を片っ端から読んだりしてきた。そこで、「毒親」という言葉を知った。生きにくい理由が、自分のせいだけでないことがわかり、非常に救われた。長年胸に突き刺さっていた棘が抜けたようだった。
ところがそのことで解毒できたわけではなかった。病んでいる心は、同じ傷を見せ合うことでは治らない。自分だけではない安心感は得られるが。
そして、親を呪う言葉は、今度はそのまま人の親となった自分に返ってきて、容赦無く攻撃することになり、救いのない苦しみに苛まれる。
結局、自分の心は自分で治さなければならない。
私がなりたいのは、人格的にバランスのとれた、「普通の」人。
だとすれば、一見深いところまではわかってもらえていないと感じても、バランスのとれたカウンセラーや医者にかかりながら調整していくのが一番いいのではないか。
毒親育ちは人との適切な距離感がわからない。普通の距離感では心細く感じたり、1人で殻に閉じこもりたくなったり。浮いたり沈んだりしながら、どうにか寛解に近づけていきたい。